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バラムのろば

nanana09.exblog.jp
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2011年 12月 13日

約一年前に非公開で書いてた記事をなぜか公開してみました

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10:13)

よく洗礼式の信仰告白で引用される御言葉であり、何度も聖書を通して励まされてきた御言葉でもある。

しかし…教会の中での会話で、本気で辛い時や、苦しい時、悩みの真っただ中にある時、ふと愚痴ってしまう。
そんな時に、ここぞとばかりに肩に手を置かれ、誰かにここを引用されて
「だから感謝をもって、耐えられるよう祈り求めましょう。」と言われた時ほど唖然とした事はない。

どんな答えを求めてたんだ。と突っ込まれるかもしれないが、話の流れ的には
「そういう状態なので、今の奉仕のアレとかコレをする事ができません。」って言いたかっただけなのに。

奉仕のお断りをするだけのはずが…
本当に重要だったり、行き詰ってどうしようもない時に教会に助けを求めなくなって
もうどの位経つだろう。
苦しみや辛さ、どうしようもない思いは、聖書を読み、イエス様を黙想し、祈る。

私は教会に何を求めているのだろうか。
いや、逆に私は教会で何が出来るのだろうか。
私にとって教会はどんな意味があるのだろうか。

聖書では教会は私を必要不可欠な存在であるとある。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリ12:27)

日曜日が休みではない仕事をしているので、日曜礼拝に出るのも正直大変。
聖日に神様を礼拝する為、教会に行くも行かないも神様は私の意思を尊重してくださっている。
決して休んだ聖日の礼拝DVDを持って訪問などしない。
礼拝の時の当務を割り当てておけば休まないだろう。という意図が見える当務表を持ってきたりはしない。
夜の祈祷会の司会を割り当てられても、日付が変わる頃まで仕事をしているので夜は殆ど行けない。
時間が取れても疲れ果てて、家まで帰るのもやっとなのに休ませて欲しいのが本音。

朝の祈祷会も行っていない。行けないのではなくて、行かない選択をしている。

と、教会でその旨を伝え朝もしばらく休みたいと申し出た。
申し出る必要はないのだが、今まで連続出席だったのに急に休むとアレかと思っただけだけど。

# by nanana_09 | 2011-12-13 17:53 | 日々のこと
2011年 10月 24日

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14)


先日、この番組を観た。
仕事から帰ってから観たので後半の30分かそこらしか観れなかったけど、興味深かった。

ゲストのクリスチャン作家の曽野氏とマダガスカルの病院で看護士をしている修道女の平間氏と
キャスター2人+解説員1人との間の価値観の違いが天の星と地中のマグマ程の差がありすぎて
このままだと永遠に話がかみ合わないだろうなぁ。と思った。

これは何もこの番組に限った事ではないとも思った。
私たちの生活の中でもこの隔てがあるなぁとも良く思う。

これを教会では「聖別する」「聖別された」と言う言葉で表現する。
要は、この世と私たちの価値観は違うものであるべきだし、違うものであらねばならない。と言う。
「この世と調子を合わせてはいけません。」(ロマ12:2)とあるし、旧約聖書では何度も何度も
「わたしが聖であるから、あたなたがたも聖でありなさい。」
と言っているからだ。

どうも<クリスチャン=聖。そうではない人=非聖。>という認識がお互いに出来上がる。
周囲の信仰を持っていない人達の私たちクリスチャンに対しての、イメージを少し尋ねてみると
よく分かると思う。

恥ずかしい話しだが、残念ながら私は聖なるものとは対極にいると思う。
罪を赦されただけの元罪人である事には変わりが無いし、それでもまだ罪を犯してしまう。
ただ、神様を信じていない人と違う点は、犯してしまった罪を認識し、悔い改め、また赦された元罪人として、歩み始める事を許されている恵みを知っているというだけである。
神様の忍耐が限界点に達しない事を祈るけど…


番組の話しに戻るが、そこで思い出したのは、イエス様が十字架上で息を引き取られた時に起こった出来事だ。

「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:51)

まず、目に見えない神様は、見える形で驚くばかりの光景を見せてくださり、それを「見よ。」と。
神様が見えないから信じられないのなら、見える形で…とイエス様をこの世におくってくださった(これが最大の驚く恵みだが)のに誰も信じなかった。
それでもまだ、更に「見よ。」と仰る。

神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた事は、神様と私たちの間にあった幕屋が裂けた。取り払われた事を指す。
それだけだろうか。
私は聖書全体から感じる事だが、イスラエルの民と他民族との間にあった壁(いわゆる選民意識と言われるもの)…幕も取り払う事も神様は望んでおり、この神殿の幕が裂けた時にその壁(幕)も取り払われたのではないだろうか。

しかし、未だにこの価値観の違いは高い高い壁としてそそり立っているように思う。
この価値観の違いを埋めて行こうとしなければ永遠に埋まらないものなような気がする。

イエス様が地上に、それもとても裕福で、美しく神々しい姿で現れたのではなく
馬小屋の飼葉桶の中で両親と馬に見守られながら人間の赤ちゃんとして誕生し、大工の息子として、いけにえに鳩を捧げるしかない家の子として歩んだように
私たちも、聖なるものとしての立場で周囲と交わるのではなく、イエス様のように歩まなければ永遠にこの違いは埋まらないのではないかと思った。

埋まらない以上、教会に対しての、クリスチャンに対しての奇異(失礼)な偏見はなくならないし
この番組の中で解説員が言った、詳細までは覚えてないが
「あなたがたのように生きたいとは思うが、自分はそのような生き方は出来ない。」という
ちょっと疎外された感を抱かせるだけで終わってしまうのではないかと残念な気がした。
この解説員の方は、負け惜しみや捻くれでそう言ったようには見えなかった。

どちらかと言うと、イエス様に「完全になりたければ、すべての持ち物を売り払って…」と言われ、それが出来ない事に気落ちした金持ちの青年と、私には重なって見えた。


「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14)

神様はクリスチャンの間だけに住まわれたのではなく、神様を信じていない人の間に住まわれたように、私も神様からの恵みとまことを携えて、どんな人の中ででも生きていきたい。

# by nanana_09 | 2011-10-24 11:30 | 日々のこと
2011年 10月 22日

苦しみの時にこそ。

私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。(詩篇119:28)
どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(詩篇119:49~50)




「神は愛なり」
確かに神様は愛そのものである。

しかし、聖書は神は愛であると言っているが、愛であるから、信仰生活の毎日がハッピーでハレルヤだけではない事も私は知っている。

そもそも愛=ハレルヤ=ハッピーだと短絡的な思考そのものにもなんだか問題があるように思う。
いや、最終的にはすべてが喜びとなり、益となる事も知っているが
私の場合、それはとことん苦しんで、諦めムードでため息をついた時にイエス様を見上げる事ができ、やっと気づく事が出来る。

その苦しみが数日か、数ヶ月か、数年かは人それぞれだと思うが、その苦しみの間、イエス様を見失う事のないように祈っている。
苦しみのあまり、自分からイエス様の手を振り払う事がないように祈っている。

「苦しみや問題から視点を移し、イエス様だけを見上げて、信仰を持って祈りましょう!」
と良く言われるが、出来る人が心底羨ましい。
私が苦しむ時にはそんな余裕は皆無なので、それこそ神業なんだなぁとしか思えない。

そうは言っても、その問題の先にイエス様がいてくださる事を知っている私は、苦しみや問題を真正面から見据える事しかできない程、余裕がない内にあっても本当に祝福されていると実感する。
振り返ってみると、神様がその苦しみながら歩んだ道の所々にも、恵みのともしびを置いていてくださるのを見る時、少し励まされ、よし、やるか。と取り組む事ができる。

問題と取り組むにはまず、自分の罪を認めなければならない。
自分の闇の部分と向き合わなければならないのだ。

もちろん私一人ではなく、イエス様が共にいてくださる故、出来る事であり、その苦しみも悲しみも辛さも、共に苦しみ悲しみ辛く涙を流して下さって「大丈夫。心配しなくていいよ。誰も知らなくともわたしだけはあなたの事を知っているから。」と言ってくださっている事を知っているから少し安心できる。
どんなにダメな私でも「大丈夫、それでも愛してる。いつまでも変わらず愛し続けるよ。」と手を握ってくださっている事を実感するから。

その手が、詩篇にある「杖とむちが私のなぐさめです。」の杖となっている。
その手が、杖がなければ私は自分の人生をとっくに放り出していた。
御言葉通り、それだけが私のなぐさめであり、今現在、私が信仰を持ち続けている理由だと思う。

悔い改める事も一度悔い改めれば良し。というものでもなく
毎日毎日イエス様を十字架につけているような気がして、自分で自分がうんざりする日が続く。


今朝のデボーションの箇所では、まさに今の私の状態そのもので、びっくりした。
まさに、私のたましいは悲しみで涙を流し続けている。

人は罪人である為にみな罪を犯す者であり、私だって赦された元罪人なだけで、今も変わらず罪を犯してしまう。
罪は裁くべきであるが、罪を犯した人を裁くべきではない。とは私も思う。
戒める事だけで済ませるのが、果たして本当の愛なのだろうか?

イエス様は、傷ついて倒れている人をあわれみ、介抱した人がその人の隣人となり、「あなたも、行ってそのようにしなさい。」「隣人を愛しなさい。」と仰られる。

愛とは覆う事だとも思う。
アダムとエバが園を追い出された時に神様は、裸の彼らを皮の衣で覆ってくださった。
彼らの罪を、園で彼らが親しく暮らしていた動物の血を流し、その動物の皮で覆ってくださった。
そこにイエス様の受肉、十字架と贖いが暗示されているように。

信仰が無かったら、どんなに簡単に処理できたか…と思わずにはいられない。
イエス様の、神様の愛を知った故に悩み、その人の事を思い悲しんでしまう。

# by nanana_09 | 2011-10-22 17:16 | デボーション