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バラムのろば

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2011年 10月 22日

苦しみの時にこそ。

私のたましいは悲しみのために涙を流しています。みことばのとおりに私を堅くささえてください。(詩篇119:28)
どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。(詩篇119:49~50)




「神は愛なり」
確かに神様は愛そのものである。

しかし、聖書は神は愛であると言っているが、愛であるから、信仰生活の毎日がハッピーでハレルヤだけではない事も私は知っている。

そもそも愛=ハレルヤ=ハッピーだと短絡的な思考そのものにもなんだか問題があるように思う。
いや、最終的にはすべてが喜びとなり、益となる事も知っているが
私の場合、それはとことん苦しんで、諦めムードでため息をついた時にイエス様を見上げる事ができ、やっと気づく事が出来る。

その苦しみが数日か、数ヶ月か、数年かは人それぞれだと思うが、その苦しみの間、イエス様を見失う事のないように祈っている。
苦しみのあまり、自分からイエス様の手を振り払う事がないように祈っている。

「苦しみや問題から視点を移し、イエス様だけを見上げて、信仰を持って祈りましょう!」
と良く言われるが、出来る人が心底羨ましい。
私が苦しむ時にはそんな余裕は皆無なので、それこそ神業なんだなぁとしか思えない。

そうは言っても、その問題の先にイエス様がいてくださる事を知っている私は、苦しみや問題を真正面から見据える事しかできない程、余裕がない内にあっても本当に祝福されていると実感する。
振り返ってみると、神様がその苦しみながら歩んだ道の所々にも、恵みのともしびを置いていてくださるのを見る時、少し励まされ、よし、やるか。と取り組む事ができる。

問題と取り組むにはまず、自分の罪を認めなければならない。
自分の闇の部分と向き合わなければならないのだ。

もちろん私一人ではなく、イエス様が共にいてくださる故、出来る事であり、その苦しみも悲しみも辛さも、共に苦しみ悲しみ辛く涙を流して下さって「大丈夫。心配しなくていいよ。誰も知らなくともわたしだけはあなたの事を知っているから。」と言ってくださっている事を知っているから少し安心できる。
どんなにダメな私でも「大丈夫、それでも愛してる。いつまでも変わらず愛し続けるよ。」と手を握ってくださっている事を実感するから。

その手が、詩篇にある「杖とむちが私のなぐさめです。」の杖となっている。
その手が、杖がなければ私は自分の人生をとっくに放り出していた。
御言葉通り、それだけが私のなぐさめであり、今現在、私が信仰を持ち続けている理由だと思う。

悔い改める事も一度悔い改めれば良し。というものでもなく
毎日毎日イエス様を十字架につけているような気がして、自分で自分がうんざりする日が続く。


今朝のデボーションの箇所では、まさに今の私の状態そのもので、びっくりした。
まさに、私のたましいは悲しみで涙を流し続けている。

人は罪人である為にみな罪を犯す者であり、私だって赦された元罪人なだけで、今も変わらず罪を犯してしまう。
罪は裁くべきであるが、罪を犯した人を裁くべきではない。とは私も思う。
戒める事だけで済ませるのが、果たして本当の愛なのだろうか?

イエス様は、傷ついて倒れている人をあわれみ、介抱した人がその人の隣人となり、「あなたも、行ってそのようにしなさい。」「隣人を愛しなさい。」と仰られる。

愛とは覆う事だとも思う。
アダムとエバが園を追い出された時に神様は、裸の彼らを皮の衣で覆ってくださった。
彼らの罪を、園で彼らが親しく暮らしていた動物の血を流し、その動物の皮で覆ってくださった。
そこにイエス様の受肉、十字架と贖いが暗示されているように。

信仰が無かったら、どんなに簡単に処理できたか…と思わずにはいられない。
イエス様の、神様の愛を知った故に悩み、その人の事を思い悲しんでしまう。

by nanana_09 | 2011-10-22 17:16 | デボーション


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