2011年 10月 24日
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ1:14) 先日、この番組を観た。 仕事から帰ってから観たので後半の30分かそこらしか観れなかったけど、興味深かった。 ゲストのクリスチャン作家の曽野氏とマダガスカルの病院で看護士をしている修道女の平間氏と キャスター2人+解説員1人との間の価値観の違いが天の星と地中のマグマ程の差がありすぎて このままだと永遠に話がかみ合わないだろうなぁ。と思った。 これは何もこの番組に限った事ではないとも思った。 私たちの生活の中でもこの隔てがあるなぁとも良く思う。 これを教会では「聖別する」「聖別された」と言う言葉で表現する。 要は、この世と私たちの価値観は違うものであるべきだし、違うものであらねばならない。と言う。 「この世と調子を合わせてはいけません。」(ロマ12:2)とあるし、旧約聖書では何度も何度も 「わたしが聖であるから、あたなたがたも聖でありなさい。」 と言っているからだ。 どうも<クリスチャン=聖。そうではない人=非聖。>という認識がお互いに出来上がる。 周囲の信仰を持っていない人達の私たちクリスチャンに対しての、イメージを少し尋ねてみると よく分かると思う。 恥ずかしい話しだが、残念ながら私は聖なるものとは対極にいると思う。 罪を赦されただけの元罪人である事には変わりが無いし、それでもまだ罪を犯してしまう。 ただ、神様を信じていない人と違う点は、犯してしまった罪を認識し、悔い改め、また赦された元罪人として、歩み始める事を許されている恵みを知っているというだけである。 神様の忍耐が限界点に達しない事を祈るけど… 番組の話しに戻るが、そこで思い出したのは、イエス様が十字架上で息を引き取られた時に起こった出来事だ。 「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。」(マタイ27:51) まず、目に見えない神様は、見える形で驚くばかりの光景を見せてくださり、それを「見よ。」と。 神様が見えないから信じられないのなら、見える形で…とイエス様をこの世におくってくださった(これが最大の驚く恵みだが)のに誰も信じなかった。 それでもまだ、更に「見よ。」と仰る。 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた事は、神様と私たちの間にあった幕屋が裂けた。取り払われた事を指す。 それだけだろうか。 私は聖書全体から感じる事だが、イスラエルの民と他民族との間にあった壁(いわゆる選民意識と言われるもの)…幕も取り払う事も神様は望んでおり、この神殿の幕が裂けた時にその壁(幕)も取り払われたのではないだろうか。 しかし、未だにこの価値観の違いは高い高い壁としてそそり立っているように思う。 この価値観の違いを埋めて行こうとしなければ永遠に埋まらないものなような気がする。 イエス様が地上に、それもとても裕福で、美しく神々しい姿で現れたのではなく 馬小屋の飼葉桶の中で両親と馬に見守られながら人間の赤ちゃんとして誕生し、大工の息子として、いけにえに鳩を捧げるしかない家の子として歩んだように 私たちも、聖なるものとしての立場で周囲と交わるのではなく、イエス様のように歩まなければ永遠にこの違いは埋まらないのではないかと思った。 埋まらない以上、教会に対しての、クリスチャンに対しての奇異(失礼)な偏見はなくならないし この番組の中で解説員が言った、詳細までは覚えてないが 「あなたがたのように生きたいとは思うが、自分はそのような生き方は出来ない。」という ちょっと疎外された感を抱かせるだけで終わってしまうのではないかと残念な気がした。 この解説員の方は、負け惜しみや捻くれでそう言ったようには見えなかった。 どちらかと言うと、イエス様に「完全になりたければ、すべての持ち物を売り払って…」と言われ、それが出来ない事に気落ちした金持ちの青年と、私には重なって見えた。 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(ヨハネ1:14) 神様はクリスチャンの間だけに住まわれたのではなく、神様を信じていない人の間に住まわれたように、私も神様からの恵みとまことを携えて、どんな人の中ででも生きていきたい。
by nanana_09
| 2011-10-24 11:30
| 日々のこと
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